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ジャポリズム道

フィラデルフィア美術展 : 2007年08月14日(火曜日)

カテゴリー: 美術と歴史
投稿: nishimura
「フィラデルフィア美術展 〜印象派と20世紀の美術〜」を
京都市美術館へ見に行きました。

フィラデルフィア美術館は、中世ルネサンスから現代に至る25万点以上もの
コレクションを誇るアメリカ屈指の美術館。
どんな展示が見られるのかワクワクしました。

展示内容は、19世紀のコロー、クールベ、マネからはじまり印象派のルノワール、モネ、
そしてゴッホ、ゴーギャン、セザンヌを経て、ピカソ、カンディンスキー、マティス、
デュシャン、シャガール、ミロ、マルグリットらヨーロッパの巨匠たち。
ホーマー、オキーフ、ワイエスなど、アメリカ人がかも加わり、見応えのある展示でした。

中でも、ルノワールの人物画の生き生きとした色彩美は、素晴らしいものでした。
日本美術にはない、良さ、美しさというのも、いいものですね。
感動しました。

フィラデルフィア美術展入口

西村

若冲展 : 2007年04月12日(木曜日)

カテゴリー: 美術と歴史
投稿: nishimura
5月13日から6月3日まで相国寺承天閣美術館にて開催される若冲展の
案内が相国寺さんより届きました。
早速ポスターをアトリエ前に貼りました。

伊藤若冲

伊藤若冲はもっとも大好きな画家のひとりで本や印刷物でしか作品を見た
事がなく10年程前、相国寺承天閣美術館で初めて作品を見せていただき、
とても驚いた事を昨日のように覚えています。

その時に見入ってしまったのが釈迦三尊像です。
大きな作品で、鮮やかな彩色が施され細かな装飾まで丁寧に描かれており、
とても美しい作品でした。日本の仏画の中では一番の作品と感じました。

そんな抜群の色彩感覚と確実な描写力の伊藤若冲の作品が
また色々見られると思うとワクワクします。
今回、分蔵されていた最高傑作「動植綵絵」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)も
展示されます。釈迦三尊像と120年ぶりの再会だそうです。

京都の方だけでなく、この観光シーズンに京都に来られる予定の方、
観光地巡りのひとつに加えてみられてみてはいかがでしょうか。
お勧めです。

(西村)

聚光院の障壁画 : 2007年03月18日(日曜日)

カテゴリー: 美術と歴史
投稿: nishimura
臨済宗大徳寺派の大本山大徳寺の山内塔頭の聚光院に行ってきました。
ここは三好長慶や千利休に関わり深いお寺ですが、今日の目的は障壁画を見に来ました。

狩野松栄、永徳の筆による国宝の方丈襖絵です。
今日はこの障壁画を本来の形で見る事のできる最後の日です。
というのもこの作品は京都国立博物館へ行ってしまいます。
なのでしっかりとこまか〜い所まで目に焼き付けてきました。

以前三年半前に東京国立博物館にてこの大徳寺聚光院の襖絵展を見た事がありました。
今回じっくり見るのは二回目です。

一番の感想は、やはりこの襖絵はこの場所にあり最高傑作と感じました。
一面一面の絵は、構図や見る人の目線までも計算されているようで、もちろん素晴らしいですが、とくに室中の間の障壁画から南の枯山水の庭園までの一体感、一つに見え、インスタレーションされた、障壁画と庭、空間、空気までもが作品であり、立体の作品の中にいる心地でした。全く東京で見た時と違う印象を受けました。

永徳筆の一番重要であろう室中の間の正面の花鳥図が仏壇が有る事により開けられ、絵が途切れると思いきや、仏壇下の父松栄の描いた蓮池藻魚図があらわれます。
子の永徳に重要な間をおもいっきりまかせ、父はしっかりバックアップサポートをしているようにも感じました。永徳の力強い描写力、潔い筆さばき、父松栄の柔らかい穏やかなラインが見事に合致した襖絵の数々、実に素敵な空間です。

狩野親子の足下にも及びませんが、三年前に父が句を書き私が絵を入れて二人で作った作品と今は亡き父の優しさを思い出し、なんだか温かい気持ちになりました。
今日は狩野松栄、永徳にすっかり感動させられてしまいました。

父子水墨

(西村)

御所の梅 : 2007年02月22日(木曜日)

カテゴリー: 美術と歴史
投稿: nishimura
御所の近くに用事があったので自転車ででかけました。

御所と昨日記した二番町の歴史話を交えて
今日は、引き続きミニ話を書きたいと思います。

豊臣秀吉の時代が終わり、聚楽第(じゅらくだい)が壊され
組屋敷(一番町から七番町あたり)も一時は
農耕地になっていたようなのですが、
宝永の大火(1708年)で皇居炎上の大事件がおこりました。

徳川幕府は直ちに復興に着手し、工事場の必要から
御所南西あたりの住民に立ち退き命令をだし、移転先として
元組屋敷跡(一番町から七番町あたり)を分賜しました。

そして156年後(1864年)幕末に起った
御所の蛤御門の変では、御所南西あたり
(長州藩対会津藩、薩摩藩、幕府連合軍の戦で長州藩が敗北)
とくにその一帯は大火に包まれたといいます。

そんな歴史があった中を、今は平和に自転車を止めて
苑内に咲き出した梅林のきれいな梅を眺めてます。

梅写真

平和で幸せな事をついつい忘れがちになってしまいます。
平和な時代をありがとう。
感謝の気持ちを持って蛤御門をくぐり抜け
チャリチャリと帰りました。

                   (西村)

住所の看板 : 2007年02月21日(水曜日)

カテゴリー: 美術と歴史
投稿: nishimura
ジャポリズムの隣りの家に古い住所の書いた看板があります。

住所の看板

京都には沢山の通りがあり、名前があり、
そしてその通りを覚える童歌なんかもあります。

この相合図子通りですが下の森通りとも呼ばれます。
名の通り北野天満宮の門前辺りを下の森といい
南へ下がる通りです。

そして二番町という町名についてですが、前回、平安時代の
二番町辺りは大内裏の中の大蔵省の位置であった事を記しました。

その数百年後の安土桃山時代のお話になります。
日本美術でいえば狩野永徳、長谷川等伯の時代ですね。

天正15年(1587)豊臣秀吉が聚楽第を造営し
大名でない武士達を集住させ、この辺りを中心に7ブロックに区分。
そして一番町から七番町まで番号を付し組屋敷が形成されました。
この二番町が町名の由来だそうです。

ちなみに水上勉の五番町夕霧楼は
1950年頃のこの五番町がモデルにされています。
もっとちなみに八つ橋の品名でおなじみの夕子は
この話にでてくるヒロイン夕子から取られたとか・・・ 
いろいろ深く探求するとおもしろいですね。
                          (西村)