御所の梅 : 2007年02月22日(木曜日)
御所の近くに用事があったので自転車ででかけました。
御所と昨日記した二番町の歴史話を交えて
今日は、引き続きミニ話を書きたいと思います。
豊臣秀吉の時代が終わり、聚楽第(じゅらくだい)が壊され
組屋敷(一番町から七番町あたり)も一時は
農耕地になっていたようなのですが、
宝永の大火(1708年)で皇居炎上の大事件がおこりました。
徳川幕府は直ちに復興に着手し、工事場の必要から
御所南西あたりの住民に立ち退き命令をだし、移転先として
元組屋敷跡(一番町から七番町あたり)を分賜しました。
そして156年後(1864年)幕末に起った
御所の蛤御門の変では、御所南西あたり
(長州藩対会津藩、薩摩藩、幕府連合軍の戦で長州藩が敗北)
とくにその一帯は大火に包まれたといいます。
そんな歴史があった中を、今は平和に自転車を止めて
苑内に咲き出した梅林のきれいな梅を眺めてます。
平和で幸せな事をついつい忘れがちになってしまいます。
平和な時代をありがとう。
感謝の気持ちを持って蛤御門をくぐり抜け
チャリチャリと帰りました。
(西村)
御所と昨日記した二番町の歴史話を交えて
今日は、引き続きミニ話を書きたいと思います。
豊臣秀吉の時代が終わり、聚楽第(じゅらくだい)が壊され
組屋敷(一番町から七番町あたり)も一時は
農耕地になっていたようなのですが、
宝永の大火(1708年)で皇居炎上の大事件がおこりました。
徳川幕府は直ちに復興に着手し、工事場の必要から
御所南西あたりの住民に立ち退き命令をだし、移転先として
元組屋敷跡(一番町から七番町あたり)を分賜しました。
そして156年後(1864年)幕末に起った
御所の蛤御門の変では、御所南西あたり
(長州藩対会津藩、薩摩藩、幕府連合軍の戦で長州藩が敗北)
とくにその一帯は大火に包まれたといいます。
そんな歴史があった中を、今は平和に自転車を止めて
苑内に咲き出した梅林のきれいな梅を眺めてます。
平和で幸せな事をついつい忘れがちになってしまいます。
平和な時代をありがとう。
感謝の気持ちを持って蛤御門をくぐり抜け
チャリチャリと帰りました。
(西村)
住所の看板 : 2007年02月21日(水曜日)
ジャポリズムの隣りの家に古い住所の書いた看板があります。
京都には沢山の通りがあり、名前があり、
そしてその通りを覚える童歌なんかもあります。
この相合図子通りですが下の森通りとも呼ばれます。
名の通り北野天満宮の門前辺りを下の森といい
南へ下がる通りです。
そして二番町という町名についてですが、前回、平安時代の
二番町辺りは大内裏の中の大蔵省の位置であった事を記しました。
その数百年後の安土桃山時代のお話になります。
日本美術でいえば狩野永徳、長谷川等伯の時代ですね。
天正15年(1587)豊臣秀吉が聚楽第を造営し
大名でない武士達を集住させ、この辺りを中心に7ブロックに区分。
そして一番町から七番町まで番号を付し組屋敷が形成されました。
この二番町が町名の由来だそうです。
ちなみに水上勉の五番町夕霧楼は
1950年頃のこの五番町がモデルにされています。
もっとちなみに八つ橋の品名でおなじみの夕子は
この話にでてくるヒロイン夕子から取られたとか・・・
いろいろ深く探求するとおもしろいですね。
(西村)
京都には沢山の通りがあり、名前があり、
そしてその通りを覚える童歌なんかもあります。
この相合図子通りですが下の森通りとも呼ばれます。
名の通り北野天満宮の門前辺りを下の森といい
南へ下がる通りです。
そして二番町という町名についてですが、前回、平安時代の
二番町辺りは大内裏の中の大蔵省の位置であった事を記しました。
その数百年後の安土桃山時代のお話になります。
日本美術でいえば狩野永徳、長谷川等伯の時代ですね。
天正15年(1587)豊臣秀吉が聚楽第を造営し
大名でない武士達を集住させ、この辺りを中心に7ブロックに区分。
そして一番町から七番町まで番号を付し組屋敷が形成されました。
この二番町が町名の由来だそうです。
ちなみに水上勉の五番町夕霧楼は
1950年頃のこの五番町がモデルにされています。
もっとちなみに八つ橋の品名でおなじみの夕子は
この話にでてくるヒロイン夕子から取られたとか・・・
いろいろ深く探求するとおもしろいですね。
(西村)